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2014/03/10 (Mon) 06:00

二枝ビル

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二枝ビル(旧 志免鉱業所共済組合物資部野菜部?)
福岡県糟屋郡志免町東公園台2丁目/1954年12月開店/木造2階建

近いうちに炭鉱の記事をまとめるつもりだったのですが、調べていくうちに深みにはまってしまい(物理的にではありません)、中々すぐには仕上がりそうにありません。という訳で代わりと言っては何ですが、少しだけ炭鉱に関連する物件をご紹介したいと思います。この建物は九州を代表する炭鉱遺産として名高い志免鉱業所竪坑櫓から程近い場所にあり、以前から何となく気になる存在でした。

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一応ビルと名前に付いているものの一般的に想像されるような鉄筋の建物ではなく、精肉店とパン屋が入居するだけの木造の商店。竪坑櫓のある五坑付近と隣の須恵町にあった六坑付近(現在の須恵第三小学校あたり)とを結ぶ往時のメインストリートに面しているのですが、竪坑櫓方向(建物西側)の角が浅く切り取られ、2階の窓には独特な意匠が施されています。

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ズーム。この意匠から昭和戦中~戦後期の雰囲気が感じられたので、この手の建築が残っているのは志免町だと珍しい例じゃないかな?と何となく印象に残りました。それ以上は特に踏み込む訳でもなかったので次第に記憶の片隅に追いやられて行ったのですが、後日これとよく似た意匠をもつ建物を偶然見つけたのです。

志鉱会館
志免町ホームページより拝借

その建物とは、現在の志免東公園あたりにかつて存在した共済会館(のちの志鉱会館、現存せず)。主に志免鉱業所の関係者が使用していた文化施設で、1934年に建てられました。写真は同町HPのなつかしか(しめのむかし)からお借りしたもので、右に写っている建物が共済会館。資料によると1950年に改修工事を行い外観が少し変わったそうで、この写真は改修後の姿です。建物の半分が見切れているうえ少々不鮮明なので把握しづらいかもしれませんが、私の言いたいことが分かりますでしょうか…。

志鉱会館+

玄関ポーチ脇の大きな窓(写真で示した部分)の意匠が二枝ビルのそれと似通っていますね。このことに気付いた私は「ひょっとすると二枝ビルは志免鉱業所に関連する建物ではないか」と思うに至ったのでした。そこで関係資料を漁って確認してみたところ…この建物が建っている場所には、志免鉱業所の共済組合物資部が開設した野菜部があったそうです。

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資料によれば野菜部は戦後に新設された部署であり、開店年月は1954年12月とあります。件の窓とその周りを除く大部分が改装されたりテントで覆い隠されてたりしている現状では推測しづらいですが、同時期の竣工と考えても無理はないのではないでしょうか。この予想が正しければ、二枝ビルは恐らく共済組合の野菜部の建物をそのまま転用しているものと思われます。確証こそ得られてないものの多分正解だろう!ということで、志免鉱業所の歴史を伝える存在のひとつとして記事にしてみた次第です。間違っていたらごめんなさい。

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最後に少し引きの写真を。右手前方向が須恵町で左奥方向に竪坑櫓があります。こちら側からだと件の窓に気付きにくく、何の変哲もない建物として通り過ぎてしまいかねませんね。余談ですが、野菜部が営業していた当時は建物前の道路に上屋(アーケード)が設置されていたそうです。恐らく建物の外に野菜を並べて販売していたため、そうした設備が必要とされたのではないでしょうか。自動車がそこそこのスピードで行き交う今となっては想像もつきませんが、炭鉱のあった時代の道路というものは本当の意味で人々の共有空間だったのでしょうね。


(2014年7月25日追記)

終わりに少しだけ触れた建物前の上屋(アーケード)について。国土地理院の空中写真閲覧サービスにて志免鉱業所付近の現在に至るまでの様子を見ていて分かったのですが、どうもこのアーケードは意外と最近まで残っていたようなのです。まずは二枝ビルの場所を現在の地図で再確認。


続いて地理院の航空写真を見てみましょう。最後に写っていたのは2005年3月撮影の写真(CKU20041-C24-3398)で、向かいの惣菜店の建物との間、道路上に架かる茶色い切妻屋根が確認できますね。その次の2007年9月撮影分(CKU20073-C22-35)には写っていないので、この2年と半年の間に何らかの理由で撤去されたことになります。いちばんに考えられる要因は老朽化ですが、ひょっとしたら2005年3月に発生した福岡県西方沖地震も関係しているのかもしれません。

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そして記事に使用した写真をついでに見返してみると、なんとアーケードの根元の部分と思しき鉄骨が残っていることに気が付きました。黄色い矢印で示した部分がそれで、2階に張られたテントから4箇所、続きになった平屋のパラペットから3箇所突き出しています。こうして改めて見るとなんか不自然だな~と思えますが、撮影時はまだこの建物についてよく知らなかったため、この鉄骨のことなど全然気にも留めていませんでした。

なお記事本文でも述べた志免鉱業所の関係資料によると、アーケードの設置は野菜部開店の翌年(=1955年)3月とありました。アーケードと一体になっている二枝ビル自体が野菜部の建物をそのまま転用している可能性が高く、道路の拡幅等も行われていないため、約10年前まで残っていたアーケードも恐らく設置当初からのものだったと考えられます。

また向かいの惣菜店の建物はアーケード設置後の1970年頃に建てられたものですが、ストリートビューで確認した所こちらには同様の痕跡は全く見られません。しかし建物と道路の間、駐車スペースとして使用されている部分をよく見ると、二枝ビルから突き出した鉄骨と対応する形で柱の基礎の跡らしきものが残っているように思えます。このことから推測すると、このアーケードは分類上は道路全体を覆う「全蓋式アーケード」であったものの、構造的には建物から歩道に突き出す形の「片側式(片屋根式)アーケード」に近かったのではないでしょうか。

あくまで想像に過ぎない程度の推測ですが、私が竪坑櫓を見るために炭鉱跡に通い始めた頃はまだ残っていたのかと思うと口惜しく、こうして昔の航空写真を見ながら想像を巡らすしかないのでした。ちなみに二枝ビルのすぐ近くにある大正町商店街には、同時期あるいはもう少し古い時期に架設されたと思われる木造アーケード(全蓋式)が残っています。

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