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2014/03/30 (Sun) 01:42

麻生山田炭鉱


麻生山田炭鉱
所在地:福岡県糟屋郡久山町山田
操業時期:1948~1967年(19年間)
総出炭量:102万7378トン

山田炭鉱は大手炭鉱会社の麻生鉱業*1 が、現在の久山町山田で開発・経営した炭鉱です。主に家庭用の石炭(ホームコール)を産出する中規模な炭鉱でしたが、1948(昭和23)年の開坑以来、効率的な生産を目指して先進技術が導入されていました。しかし、炭層に松岩*2 が多く含まれるために十分な効果が得られず、また採掘区域が次第に農地・宅地へと広がるにつれ、鉱害リスクの増大による採算悪化が懸念されるようになります。結局こうした同鉱特有の事情や、石炭産業全体の斜陽化を背景に、同社の事業合理化の一環として67(同42)年に閉山。同鉱の位置する糟屋炭田*3 では最も遅くまで操業を続けたものの、その期間は僅か19年と短命に終わりました。

沿革
1948 (S23) 07/10糟屋郡山田村にて操業開始
1948 (S23) 12/06第一坑開坑
1950 (S25) 06/ --正常出炭開始
1952 (S27) 11/01第三坑開坑
1953 (S28) 12/ --第三坑が断層逢着により採掘中止
1954 (S29) 05/14第三坑閉坑(累計出炭量800トン)
1954 (S29) 10/01麻生鉱業と産業セメント鉄道が合併、麻生産業(株)発足
1956 (S31) 04/ --第二坑開坑
1956 (S31) 09/30山田村と同郡久原村が合併、久山町発足
1957 (S32) 03/ --第一坑の右卸が開坑、翌年6月より出炭開始
1958 (S33) 04/ --第二坑が断層逢着により採掘中止
同月第一坑の人車卸が開坑
1958 (S33) 09/06第二坑閉坑(累計出炭量8407トン)
1961 (S36) -- / --第一坑の新卸が開坑、出炭開始
1962 (S37) 07/ --第一坑右卸が新卸への集約により採掘中止
1967 (S42) 06/15閉山(総出炭量102万7378トン)


閉山によって坑口(坑道内部=地下への出入口)は閉塞され、また坑外(地上)の施設も大半が解体・撤去されましたが、跡地の利活用があまり進んでいないため、現存する遺構も少なくありません。また周辺には炭鉱労働者が暮らした社宅街(炭鉱住宅街)が、普通の住宅街へと変貌しつつ、かつての面影を留めています。炭鉱自体は中規模ながら、炭鉱の遺構群としては小さくなく、少なくとも福岡都市圏では最大級の規模といえるでしょう。


◆坑外施設の遺構(もくじ)

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▲クリックすると大きな画像が開きます

上図は同鉱の坑外における主要施設の配置と生産工程を大まかに示したもので、一連の工程は搬出・選別・輸送の3つに大別されます。すなわち ①坑内から原炭*4 を搬出する、②原炭を選別して精炭*4 とする、③精炭を鉄道駅まで輸送する――という流れを辿り、以降は国鉄香椎線*5 の土井駅構内で貨車に積み替えられ、港のある西戸崎駅まで運ばれていました。

坑外施設では以上3つの工程をはじめ、関連する様々な遺構が今なお残っており、操業当時の様子を窺い知ることができます。これらの遺構群については、以下の4編に分けて詳しく紹介します。

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坑外施設(1)搬出


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坑外施設(2)選別


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坑外施設(3)輸送


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坑外施設(4)その他



◆旧・生活関連施設(もくじ)

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▲国土交通省の国土画像情報より引用・加工。クリックすると大きな画像が開きます

こちらは閉山後の1974(昭和49)年に撮影された航空写真をもとに、同鉱の社宅街の位置を図示したものです。坑外施設に近い草場地区に2か所、やや離れた上山田原山・猪野白谷両地区の計4か所に分かれており、二軒長屋*6 を中心に100棟以上の社宅が整備されていました。

このうち猪野白谷は現存しませんが(後述)、他は当時の区画が現在もほぼそのまま残っており、また一部の社宅は現役です。これら3つの旧社宅街に加え、社宅跡地と水道施設の遺構については個別に紹介します。

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草場地区(北)


池を挟んで北側にあった社宅街。操業初期から整備が始まり、最盛期には40棟余りの二軒長屋が建ち並んでいたようです。このうち15棟ほどが現存しています。

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草場地区(南)


池の南側、坑外施設の近くにあった同鉱最大の社宅街。操業初期から整備・拡張を繰り返し、閉山時には50棟近くの二軒長屋が林立していました。ただし現在は解体・建て替えが進んでおり、かつての社宅は数棟を残すのみとなっています。

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上山田 原山地区


坑外施設から約1キロ南西に位置した社宅街。ここには18棟が存在しましたが、このうち12棟は一戸建ての社宅で、総戸数の半分を占めていたのが特徴です。現在は一見普通の住宅街ながら、戸建てを含む数棟が現存しています。

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猪野 白谷地区(国土交通省の国土画像情報より引用・加工。撮影時期は前掲写真と同じ)

同じく約500メートル南東、二軒長屋が5棟だけ並んだ小さな社宅街。現在は戸建ての住宅街が造成されており、いずれの棟も現存しません。近所の方にお話を伺ったところ、「上の人たち(=お偉方)が住んでいた」とのことで、どうやらここは幹部職員向けの社宅だったようです。

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社宅跡


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水道施設の遺構


他、社宅街のうち閉山後に解体された区画や、麻生鉱業によって整備された水道施設の遺構について取り上げています。


【脚注】
*1 福岡県飯塚市に本社を置いた大手炭鉱会社。麻生太吉によって明治中期に麻生商店(個人)として創立し、1918年に株式会社化、41年に改称したもので、地方財閥・麻生の中核をなした。54年にグループ企業と合併して麻生産業(株)となるが、石炭産業の斜陽化により69年に解散。以降は67年に分社化された麻生セメント(株)がグループの中核を担い、2001年にセメント部門を再分離の上、(株)麻生と改称して現在に至る。なお、麻生太郎氏(元首相、現副総理兼財務相)は麻生太吉のひ孫で、政界進出前には旧麻生セメントの代表取締役社長を務めた。
*2 主に炭層中に含まれる珪化木の俗称。石炭はメタセコイアなどの樹木が炭化した可燃性堆積岩だが、松岩は珪化したもので極めて硬く、しばしば石炭採掘の障害となる。 また石炭とは異なり不燃性のため、採掘から選炭までの工程で取り除かれて廃棄されたり、炭鉱内外の石垣などに再利用されたりする。
*3 現在の福岡市東部と糟屋郡に分布する炭田。福岡市西部の早良炭田と併せて福岡炭田とも称される。これらの炭田では他に明治鉱業高田炭鉱(1960年に閉山)、早良鉱業姪浜炭鉱(同62年)、三菱鉱業勝田炭鉱(同63年)、国鉄志免炭鉱、西戸崎炭鉱(同64年)などが操業した。
*4 採掘されたままの状態の石炭を原炭、不純物などを取り除いた高品位の石炭を精炭という。
*5 現 JR香椎線。西戸崎(福岡市東区)と宇美(糟屋郡宇美町)を結ぶ路線で、土井(福岡市東区)はほぼ中間に位置する駅。もとは糟屋炭田で産出される石炭の輸送を主目的とし、明治後期に博多湾鉄道が建設・開業、戦時中に国有化された。
*6 2戸(2軒)の住宅を1棟に建て連ねた長屋。

【参考文献・リンク】
「松岩面積比15%以上介在する高田層本組炭層の採炭合理化の変遷について」麻生山田炭鉱採鉱課
 ※『九州炭砿技術連盟会誌』1967年6月号(九州炭砿技術連盟)pp. 2-6
『麻生百年史』麻生百年史編纂委員会/麻生セメント/1975年
『福岡県炭鉱住宅:実態調査結果報告』福岡県建築部住宅課、西日本工業大学建築計画研究室/福岡県建築部/1977年
『久山町誌』上巻 久山町誌編纂委員会/久山町/1996年
『福岡の近代化遺産』九州産業考古学会/弦書房/2008年
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【撮影年月】
 2014年2月、3月、2017年2月

【更新履歴】
 2014年3月 記事公開
 2014年6月 上山田原山地区の社宅を追加、一部の画像を差し替え
 2015年2月 年表の内容を一部訂正、記事冒頭の文章を加筆修正
 2017年4月 記事を全面リニューアル

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