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2014/06/15 (Sun) 19:36

麻生山田炭鉱 専用水道

他の社宅街に移る前に、専用水道についても取り上げておきます。



山田炭鉱には麻生鉱業が整備した専用の水道設備があり、炭鉱施設や社宅に供給されていました。炭鉱の閉山後、工業用水は供給の必要がなくなり廃止されますが、生活用水については社宅で暮らし続ける人々のために事業が継続されます。しかし当時の麻生には閉山後の炭鉱に人手を割ける余裕はなく、残った職員だけでの維持管理が困難になったため、1969年6月に久山町へ移管され草場簡易水道となりました。その後も現在に至るまで町の管理となっているため、『久山町誌』において2ページ弱ながら紹介されています。そのうち施設の概要を述べた部分を以下に引用。

“給水区域は草場区(旧麻生社宅)で、給水人口750人、一日最大給水量150立方メートルを規模とする事業計画を申請、認可を受け、同年(=1969年)8月に給水を開始し、現在に至っている” “なお平成3年度の実績は、給水人口351人、一日最大給水量89立方メートルとなっている” 

※『久山町誌』上巻755頁より

麻生による私設水道であった点は水道施設の成り立ちとして触れられるのみで、麻生の管理下にあった時期の詳細については述べられていませんでした(当然ですが)。ただし同書の他のページにも目を通すと、この専用水道は久山町内の水道としては比較的早い時期に整備されているようで、山田炭鉱の社宅街が当時としては先進的な生活環境にあったことは容易に想像できます。



前置きが長くなりましたが、専用水道の現況を見ていきましょう。

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(1974年撮影 / 国交省の国土画像情報より引用・加工)

すっかりお馴染みになった感のあるこちらの航空写真にて、今回ご紹介する2つの専用水道の遺構の位置を丸で囲んで示しています。赤い丸で囲った方にはポンプ室が、青丸の方には配水池がありました。

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まずは草場池の南に位置するポンプ室から。写真右から中央にかけて見えるのは池の土手。ちなみに周辺の地形も合わせて考えると、草場池は川をせき止めて造られたため池のように思えます。

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堰堤の前の突き当りを左に曲がると池の放水路を渡ります。その橋のたもとにある小さな建物、これがどうやら現在のポンプ室のようです。

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実は『久山町誌』上巻754頁にはポンプ室の写真が掲載されており、扉を2つ備えた似たような小屋が写っています。周囲の状況などと照らし合わせるとこの場所で間違いないようですが、現在見られる建物は写真と比較すると仕様が微妙に異なっており、恐らく後年になって建て替えられたものなのでしょう。

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足元を流れる放水路には一部に松岩の石垣が見られます。ちなみに水は透き通っていてとても綺麗でした。

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続いては草場池の北側にあった配水池。草場(北)の社宅街で最も高い場所、社宅街の真ん中にある小さな丘の上にありました。

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現在は一見単なる藪のようですが、道沿いに小さな石段が。

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石段を上った先、急斜面を登ると…

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炭鉱時代に造られた配水池が現れます。周囲に木々が生えていなかった頃の名残でしょうか、傍らには町内放送用と思われるスピーカーが立っていました。

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やはり炭鉱跡地で見られた貯水槽(?)の類とは構造・用途とも大きく異なるようで、この配水池は梯子で上部に上がれるようになっています。

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専用水道が町に移管されてからも長年ここから水が供給されていましたが、平成に入ってから草場池の東側に新しい施設が整備され、こちらは役目を終えました。

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現在は山田炭鉱の専用水道における最大級(?)の遺構として、木々に囲まれてひっそりと残っています。

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また周辺の茂みには麻生グループの社章(麻生家の家紋「違い釘抜き紋」に由来)が彫られた用地杭?や…

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池側(南側)の斜面には水関係と思しき遺構。配水池の上から遠目に見ただけで、接近はしませんでした。

実は私がこの配水池の遺構を訪れたのは、てっきりここが山神社のあった場所だと勘違いしていたからでした。というのもグーグルマップで見ると道路から丘の上に向けて真っ直ぐ伸びる階段が表示されていたので、きっとこの丘が神社の跡なんだろう、とやや短絡的に考えていたのです。

⇒グーグルマップで見る

少々粗雑な造りの階段に出くわした時点で「何か違うな」と思っていましたが、さらに丘の上で目にしたのは大きなコンクリート構造物。いよいよ訳が分からなくなって丘を下りたところで偶然通りかかった散歩中のおじさんにお話を伺い、そこで初めて専用水道の配水池の跡だと分かったのでした。この時に山神社についても教えて頂き、資料に乏しい中たいへん助かりました。このブログを目にする機会は恐らく無いかと思いますが、改めてお礼を申し上げます。

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最後に草場池の写真を。閉山後に整備され現在も使用されている町の浄水場は写真右奥にあります。これまで炭鉱にばかり目が行っていましたが、釣りブログなどで紹介されているのを見ると草場池は透明度の高い綺麗な池だそうなので、いずれまた訪れた際は池の風景もしっかり写真に収めておきたいと思います。写真の撮影年月は以下のとおり。

2014年2月)001~011
2014年3月)012~014


(おまけ)

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無名の橋

ポンプ室の横に架かる、この橋についても少しだけ。ここを通っているのはかつての炭鉱敷地の外周道路の一部であり、この橋を渡った少し先に炭鉱敷地の正門と思しき場所はありました。

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そのような位置関係から想像すると、この橋は草場(南)と原山から通っていた鉱夫たちや、白谷から通っていた麻生の社員にとっては炭鉱の入口といっても良い、特別な存在だったと思われます。恐らく戦後に架けられたはずのこの小さな橋が必要以上に重厚な造りをしているように感じるのは、そうした背景があってのことなのでしょうか。

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現在は炭鉱跡地を貫く新しい道路に阻まれ道が途切れてしまったため、人々から半ば忘れ去られたような存在になっています。しかし新しい道路が既存のルートから大きく外れる形で整備されたおかげで架け替えられずにこうして残っている訳で、この橋はある意味で幸せな余生を送っているのかもしれません。

なお、写真は3点とも2014年3月撮影です。

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