志免炭鉱 坑外軌道トンネル

志免炭鉱付近を走っていた勝田線や香椎線貨物支線さえ廃止されてしまった現在では想像も付きませんが、操業当時はさらに炭鉱敷地内にも網の目のように軌道が張り巡らされていました。
石炭の搬出や人員輸送、さらにはボタの運搬など用途は多岐にわたります。石炭産業の隆盛ぶりを象徴するように、日々忙しくトロッコが行き交っていたのでしょう。
炭鉱跡地の活用が進んだ今日、それらの軌道の痕跡を見ることは難しくなっていますが、こんな遺構が人知れずひっそりと残っています。
ほとんど埋もれてしまったコンクリートの構造物。緩やかなアーチと土砂の間に暗闇が覗いています。
アーチは少し奥まで続いていますが、そのすぐ先で明かりが漏れていました。短い直線のトンネルのようです。
炭鉱の閉山後はトンネルに並行して道が造られました。内部はそれなりに幅員があるものの、恐らく高さがネックになり転用できなかったのでしょう。
ポータル上部より出口方向を見る。
隣の道を通って反対側に向かいます。
ちょうど中間地点付近にある構造物。
途中からトンネル側壁の外部が露出していました。横向きに大きなクラックが走っています。
反対側。周辺の草木が刈り取られており、以前よりもオープンな雰囲気。
残念なことに翼壁(?)部分は欠けてしまっていますが…
アーチ部分の状態としてはこちら側の方が良さそうです。
内部。天井には等間隔で梁が並んでいます。
昔の航空写真を見るとトンネルの上を横切る形でボタ運搬線が通っており、トンネルを抜けた軌道は資材置き場のような場所まで続いていました。恐らくボタ山の拡大を受けて運搬線を新設する際に、既存の軌道と交差する必要があったためトンネルを設けたのではないでしょうか。正確な建設時期は分からないものの、1947年撮影の航空写真で存在が確認できるので、遅くとも戦後間もない頃と考えられます。
閉山後はわざわざ撤去するのも手間がかかるためか、両側のポータル前に土砂を盛って封鎖し現在に至っています。残るべくして残った訳ではないので当然保存措置などは取られておらず、そもそも町が遺構として認知しているかどうかも分かりませんが、周辺の開発が行われない限りは恐らくこれからも残り続けることでしょうね。余談ですがシーメイト敷地内にて保存されている某遺構の案内板に、このトンネルが小さく写り込んでいる写真が使用されていました。
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