志免炭鉱 2008年7月~11月
志免炭鉱の閉山後、竪坑櫓を除き施設の大半は解体されたものの、跡地の大部分は長らく再利用されない状態が続いていました。しかし2004年に区画整理と併せて町総合福祉施設「シーメイト」が建設され、空き地のまま残った竪坑櫓周辺についても活用が図られるようになります。同年の台風でコンクリート片がシーメイト敷地内に落下したことを受け一時は解体も検討されますが、町は貴重な産業遺産として竪坑櫓を保存することを決定し、周辺の活用計画もそれに沿ったものとなりました。
今回は実際に活用のための整地工事(炭鉱跡地基盤整備事業)が始まった2008年7月以降の写真のうち、同年11月までの撮影分計47点を紹介したいと思います。
(2008年7月30日)

(画像の一部を加工しています)
この日もいつもと同じように何気なく訪れたので、いつの間にか工事が行われていたことに大変驚いたのを覚えています。
今回は実際に活用のための整地工事(炭鉱跡地基盤整備事業)が始まった2008年7月以降の写真のうち、同年11月までの撮影分計47点を紹介したいと思います。
(2008年7月30日)

(画像の一部を加工しています)
この日もいつもと同じように何気なく訪れたので、いつの間にか工事が行われていたことに大変驚いたのを覚えています。
周辺の変化もさることながら、最も目が行ったのが竪坑櫓。
なんと足元を取り囲んでいた鉄壁が撤去されていたのです。
2005年頃に台風か何かの影響で鉄壁の一部が倒れていて、その隙間から遠目に足元を覗けたことはありましたが、まさかこうして全ての鉄壁が取り払われる日が来ようとは思いませんでした。
保存が決定している竪坑櫓の変化については手放しで喜んだものの、第八坑連卸坑口については「ひょっとしたら撤去されるんじゃないか」とこの時点では少し心配になりましたね。まあ結果的には杞憂に終わるどころか嬉しい事態に発展するのですが…。
ついでに以前から気になっていた謎の坑口も見に行ってみると、こちらでも何やら工事が行われていました。その後とりあえず第五坑南側坑口と名付けられることになるのですが、この時に擁壁工事のオマケに留めることなく歩道ごと掘り返して本格的に調査していれば、その正体が明らかになっていたのかもしれません。
帰り際、敷地西側より。手前に生えていた木が伐採されて櫓がよく見えるようになっていました。
(2008年9月21日)

いちおう運動部に所属していたため夏休み中は忙しく、少ない休みも18きっぷの旅に費やしてしまったため8月は訪問できませんでした。

謎の坑口もすっかり工事を終えている様子。

掘り起こされている時の写真は結局1枚しか撮れませんでした。無念。



それはさておき上の方では未確認の坑口が発掘されたとかで、当時は新聞などでも取り上げられ話題を呼んでいました。訪れてみると確かに地盤が掘り下げられて色々と遺構が出現していますが、話題の坑口はシーメイトの反対側を向いており、工事現場の外からは姿が確認できません。



この日は遠巻きに眺めるのみとなりました。
(2008年10月5日)

2週間ぶりの訪問。

ボタ山の方でも何やら工事が行われていました。




今回も工事関係者の方々は見当たりません。そもそも自分は休日にしか来れないんだから、関係者の方に許可を頂くのはまず不可能では…?悩んだ末にちょっくらお邪魔することにしました。

当時は単なるコンクリートの塊にしか見えませんでしたが、第八坑本卸坑口。

同じく基礎にしか見えませんが、巻き上げ櫓の基礎。

そして話題を呼んでいた詳細不明の坑口、現在でいう所の第五坑西側坑口。



まだ保存が決定していた訳ではなかったので、何としてもこれを見ておきたかったのです(弁明)。

八坑連卸も以前とは異なる表情を見せていました。





他にも掘り出された石炭塊やボタ(松岩)が一か所に集められていたり。現在これらは第八坑本卸坑口の上に並べて展示されています。
(2008年10月26日)

またしても2週間ぶりの訪問。敷地の拡張(旧道部分の埋め立て)がほぼ完了していました。


(2008年11月15日)

3週間ぶりの訪問。大分ツタの葉が色づいています。

この場所で旧道が合流していたのも過去のことになりました。



竪坑櫓外周の北側にはスロープらしき構造物を建設中。こちら側は坑口がある方向であり、このスロープの登場は坑口の保存を初めて予感させた出来事でした。

第五坑南側坑口は大して変わっていませんでした。工事の過程で思わぬ遺構の発見があったものの、この頃には地盤の掘り下げもひと段落。いよいよ整地工事に取り掛かることになります。
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