最近解体された大分県の近代建築7件

コロナ下の生活も早2年。過去に訪れたことのある建物や、目星をつけていながら未訪の建物について、ネット上で近況を確認する機会が一層増えました。とりわけGoogleマップは有難い存在で、つくづく便利な時代になったものだと感じます。その反面、悲しい事実を知ってしまうことも少なくありません。航空写真やストビューを見ると更地になっていたり、有名な建物だと解体の情報が挙がっていたりします。
そこで今回は最近解体された大分県の近代建築7件をご紹介します。なぜ大分県限定なのかというと、好きだった or 気になっていた建物の解体がたまたま多かったため。県別にシリーズ化するほど各地で解体が相次いでいる訳ではない(と思う)ので、その点はご安心ください。
1.壮大華麗な看板建築

松下金物店
大分県別府市元町1-22/1929年/木造3階建/2021年解体
設計:平尾某 施工:平野平
まずは別府市にあった松下金物店。別府を代表する近代建築の一つであるとともに、いわゆる看板建築としては九州でも屈指の存在でした。1902(明治35)年の創業以来、長きにわたって金物店を営まれていましたが、2019(平成31)年4月に閉店。残った建物も21年に解体されて更地となっています(Googleマップ🔗)。

建物は1929(昭和4)年、創業した浜脇地区からの移転に伴って建てられたものです。建物の面する「流川通り」は大正期、別府港の近くを流れる河川を暗渠化して拡幅整備された道路で、港へ続くメインストリートとして賑わっていました。(ちなみに港は60年代に移転し、跡地は埋立てを経て大型ショッピングセンターとなっています。)
通りの北側に面した奥行きのある敷地で、手前に店舗、奥に住宅と倉庫を連ねた構成です。店舗は半切妻造瓦葺きの2階建てですが、通り側の1/3ほどは3階建て。パラペットを立ち上げ、全面をタイルで覆ったビル風のファサードとしています。いかにも看板建築らしい形態ながら、小ぢんまりとした感じはなく、スケールの大きさとタイルの華やかさが印象的な建物でした。



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軒先の中央には古風な照明器具が2つと、正方形の白いプレートが5つ。目をこらすと右端の「合名會社」に続いて「松下商店」と並んでいるのが読み取れます。どうやら建築当時の社名のようです。
外壁のタイルはほとんどが黄褐色のスクラッチタイルですが、窓の間には色・規格の異なるスクラッチタイル、柱型の脇には装飾的な紋様の海軍タイル(と呼ぶらしい)を用いています。




設計者は『大分県の近代和風建築』によると“東京の平尾氏” とのこと。早くから瀬戸内航路を通じて大阪などの都市部に開かれていた、当時の別府の雰囲気を感じさせる建物でした。
冒頭の写真2点は2014年、その他は16年の撮影。建物自体が失われたことはもとより、店内にお邪魔する機会を逸してしまったのも個人的には悔やまれてなりません。
2.ペディメントとアーチ窓の洋館

日出町豊岡の建物
大分県日出町豊岡/明治~昭和戦前期?/木造平屋建?/2014~18年ごろ解体
別府の北隣、日出(ひじ)町にあった洋館(画像はGoogleマップ🔗より、以下同じ)。建築時期や当初の用途など詳細は不明ですが、近年は住宅として使用されていたようです。左右対称の構成がどことなく顔のように見え、何とも可愛らしい印象を受けます。
鬼瓦の載ったペディメント、小庇付きの欠円アーチ窓、平屋建てながら高い天井、そして軒の出の浅い屋根。外壁などに多少改装の跡が窺えますが、実は結構な年代モノのように思えます。戦前なのは疑うべくもないとして、遅くとも1910年代、ひょっとしたら明治期の可能性もあるのではないでしょうか。


以前から目星を付けていたものの、足を運ぶことのないまま幾数年。昨年9月に大分県中部を訪れるにあたり、行程に盛り込もうとGoogleマップで確認したところ……屋根の形や素材、さらには位置や大きさも異なっており、既に解体されて別の建物になっていると知ったのでした。
ストビューを見ると、この丁字路付近(2014年1月撮影)では健在ですが、少し離れた国道(同18年5月)からは現在の建物の屋根が見て取れるので、その間に建て替えられたようです。そうなると「最近解体された」と言うには少し古いかもしれませんね。
3.城下町の擬洋風建築

旧 近藤産婦人科医院(旭楼)
大分県杵築市杵築/明治期/木造2階建/2019~21年ごろ解体
日出の東隣、杵築(きつき)市の城下町にあった旧 近藤医院(画像はGoogleマップ🔗より、以下同じ)。長らく産婦人科として使われていましたが、もとは旭楼という料亭?妓楼?だったそうです。『大分県の近代和風建築』に掲載されており、個別解説のページまで設けられているのですが……過去に大分の図書館で閲覧した際、不覚にも当該ページをコピーし損ねていました。そのため建築時期や当初の用途はうろ覚えです(すみません)。
白壁に瓦屋根の和風建築をベースにしつつ、ペディメントや軒蛇腹、2階ベランダに玄関ポーチといった洋風の意匠・構成を採り入れています。かの有名な旧日野医院📷(大分県由布市/1894・M27/国重文)と同じく、擬洋風建築の典型と言える建物でした。


この建物も前出と同様、いざ訪れようとしたら時すでに遅かった案件。付近のストビュー(2019年9月撮影)では健在ですが、昨年になって航空写真を確認したところ更地が広がっており、この間に解体されてしまったようです。
ちなみに建物正面のストビュー(同14年1月)を見ると、家宅侵入に対する警告が玄関などに掲げられています。以下は全くの想像ですが……解体の直接的な理由は、恐らく「建物の維持管理が困難になった」など、やむにやまれぬ事情なのでしょう。ただ、その背景に老朽化だけでなく、管理を妨げる不届き者の存在があるのだとしたら、何とも悲しくてやりきれません。


なお、敷地奥に建つ三階楼(1924・T13)は航空写真に写っており、少なくとも同時に解体された訳ではなさそうです。しかし昨年の下調べ中はそのことに気付かず、てっきりすべて更地になったものと勘違い。目的地候補から早々に外してしまったため、せっかく杵築を訪れたのに現況を確認しそびれました。
4.庄屋屋敷の擬洋風建築

佐藤家住宅(酢屋)洋館
大分県豊後高田市中真玉/大正初期/木造2階建/2019~21年ごろ解体
杵築の北隣、豊後高田市の旧 真玉(またま)町にあった洋館。こちらは2016年に一度だけ訪れたことがあります。立派なお屋敷の一画に建ち、外壁は白漆喰で仕上げた土壁(一部は後年改修)。それでいて通り側に縦長窓、お庭側には扁平アーチ窓が並んでおり、これまた擬洋風と言うべき装いの建物でした。
訪問当時は建物に関する情報を持っていなかったものの、後日『大分県の近代和風建築』を読んでいると佐藤家住宅(酢屋)として掲載されていました。同家は17世紀末ごろから醸造業を営み、この地区の庄屋も務めた旧家。この洋館は大正初期に建てられ、板の間の応接室などを備えていたそうです。


2階に並ぶ上げ下げ式の縦長窓。この内部は畳敷きの広間とのことで、間取りも和洋折衷となっていたようです。



改修を重ねた跡が見て取れる一方で、現に朽ちている部分も目に付きました。もっとも、主屋だけでも大きな建物なので、この洋館まで維持し続けるのは大変だったことでしょう。
最近Googleマップ🔗で近況を確認したところ、ストビュー(2019年9月撮影)では健在ですが、航空写真を見ると更地になっていました。主屋の裏手にあった仕込蔵も併せて解体されたようです。


ただし、航空写真を見る限り主屋(写真左奥)は残っています。前掲書によると確たる記録はないものの、19世紀前期の建築と推定されるとのこと。ちなみにググってみると近隣の小学校の郷土学習に活用されたこともあるようです(豊後高田市HP🔗)。願わくば主屋だけでも……と言いたいところですが、言うは易し、ですね。
5.唐獅子が見守る洋館

旧 河野内科小児科医院
大分県宇佐市四日市/大正~昭和戦前期?/木造平屋建/2016~19年ごろ解体
豊後高田の西隣、宇佐市の四日市(よっかいち)にあった旧 河野医院。こちらも2016年4月に訪れていましたが、当時すでに閉院しているような雰囲気でした。ストビュー🔗(19年9月撮影)を見ると更地になっており、この間に解体されたようです。
平屋建ての小さな建物ですが、足下から軒先まで人造石洗出しで丁寧に仕上げられ、なおかつ原型をよく留めている良質な洋館でした。外壁は部分的に白色の小口タイルが張られており、山勘ですが1920~30年代前半の建築ではないかと思います。


玄関庇の上に目をやると、唐獅子がこちらを見下ろしていました。魔除けのために睨みを利かせているのでしょうが、玉に乗せた前足が可愛いですね。


足下の下から2段目は、よく見ると人造石(種石+モルタル)ではなく本物の御影石でした。それにしても庇の持送りや銅製の雨樋、木枠の上げ下げ窓、横目地を切った腰回り……こうして写真を見返すと、近年までよく残っていたものだと改めて感心します。
6.アーチが連なる銀行建築

信国商店スポーツ部(旧 大分銀行四日市支店)
大分県宇佐市四日市1216/1921年/木造?2階建/2019~21年ごろ解体
設計:未確認(清水組?) 施工:清水組
前出のすぐ近くにあった信国商店スポーツ部。もともとは大分銀行四日市支店の開設以来2代目の店舗として、1921(大正10)年に建てられた銀行建築です。銀行としては27年に大分合同銀行(二十三銀行との合併に伴う行名変更)、53年に再び大分銀行(行名変更)、70年に宇佐支店(自治体合併を受けた店名変更)となった後、75年に新築移転するまで半世紀にわたって使用されました(『大分銀行百年史』より)。
清水建設の『九州支店50年』に、大分県内の主な施工事例の一つとして記載されています。同社は戦前、大分銀行の店舗を多く施工しており、本店(1915・T4/現存せず)などは設計から手掛けていました。また同時期の清水組による設計施工作品として旧第一銀行熊本支店📷(1919・T8)がありますが、タイル外壁や3連×5連のアーチといった特徴が似ています。恐らくこの四日市支店も、設計から施工まで清水組の手による作品ではないでしょうか。


頂部にはパラペットを立ち上げ、通り側の中央にメダリオンを掲げていました。戦後の大分銀行の行章(円形に図案化した「大分」の2字)が薄っすらと見て取れます。一方、緑青のふいた縁取り部分は恐らく建築当初からのもの。行名が変わるたびに行章を取り替えていたのかもしれません。


アーチの両脇を固める洗出しのレリーフ。位置からすると柱頭に見立てているのでしょうか。後に銀行建築で主流となる古典主義的な列柱に比べると、抑制的で落ち着いた印象を受けます。もっとも、個人的には大正後期の建築も大好きなので、これはこれで良いのです。


構造については確たる資料を見つけられませんでしたが、開口部や屋根回りなどの雰囲気からすると、たぶん木造ではないかと思います。いずれにせよ、煉瓦造さえ珍しかった時期・地域において、こうしたタイルをまとったビルディングは一際モダンに映ったことでしょう。



ここ四日市には東西本願寺の九州別院が立地するほか、江戸時代には幕府の直轄領だったことから代官所(後に陣屋)も置かれていました。門前町としての性格に加え、かつては行政の拠点という一面も有していたのです。そんな歴史のある街において、前出の旧河野医院と並ぶ代表的な近代建築でした。
訪問時はお店が忙しそうだったうえ、順光を狙って午前中に来たもののあいにくの曇り模様。ざっと外観だけ拝見し、いずれ晴れた日に再訪しよう……と思いつつそれっきりでした。昨年にGoogleマップ🔗で確認したところ、ストビュー(2019年9月撮影)では健在ながら航空写真では更地。この間に解体されたようです。
7.アパートに転用された銀行建築

アパート秀峰苑(旧 百三十銀行中津支店?)
大分県中津市古博多町1552/明治~昭和戦後期?/木造2階建?/2019~20年ごろ解体
最後は宇佐の西隣、中津市にあったアパート秀峰苑。こちらの建物については前回の記事📄で一足早く取り上げたので、詳細は割愛します。
いずれも解体されるにはあまりに惜しい建物ですが、まして所有者・関係者の方々は断腸の思いだったことと拝察します。やはり古い建物は見られるうちに見ておくしかないな、と一部外者として痛感した次第です。今後とも未訪の建物のもとへ少しずつ足を運ぶとともに、これは!というものは存否にかかわらず書き留めていきたいと思います。
【撮影年月】
2014年1月、2015年9月、2016年4月、同年9月
【参考文献】
- 『九州支店50年』清水建設九州支店50年編集委員会/清水建設九州支店/1956年
- 『大分銀行百年史』大分銀行百年史編集委員会/大分銀行/1994年
- 『大分県の近代和風建築:大分県近代和風建築総合調査報告書』(大分県文化財調査報告書178集)大分県教育委員会/同/2013年
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