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2022/06/26 (Sun) 09:00

西都農協会館

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西都農協会館(旧 西都市農協会館)
宮崎県西都市右松2071/1967年/鉄筋コンクリート造2階建 
設計:円建築設計事務所 施工:熊谷組

 今回は宮崎県の西都(さいと)市より、西都農協会館をご紹介します。JA西都の本所や中央支所、建築不動産センターなどが入居する施設です。1967(昭和42)年9月に西都農協会館として完成しました。

自治体合併から農協合併、そして会館建設へ

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 完成当時の農協名は西都農業協同組合。会館建設より少し前の1964(昭和39)年、市内にあった7つの農協が合併して発足しました*1 。ちなみに西都市はいわゆる「昭和の大合併」で誕生しており、62(同37)年までに計1町5村による3度の合併を経て成立しています*2
 現在の西都農業協同組合(JA西都)は、会館完成後の74(同49)年に発足。東米良・西米良の2農協との合併に伴うものですが、後者は西都市ではなく隣接する西米良村に位置することから、その関係で農協名の“市”を外したのだと思われます。

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 そんな細かいことはさておき、会館建設に至った経緯は次のように整理できます。①自治体が合併によって広域化、②市域の拡大に合わせて農協も合併、③合併後の農協の拠点を新たに建設──という流れです。以前紹介した浮羽町農協📄菊池市農協📄と同じですね。
 ただし、浮羽・菊池がさらなる農協合併を経て支所に格下げされているのに対し、ここ西都は74年を最後に合併していないためか、現在も本所として使用されています。ちなみに西都市は平成の大合併を経験しておらず、これも浮羽町・菊池市とは異なる点。自治体合併と農協合併、そして農協建築のサイクル……やはり浅からぬ関係があるように思えてなりません。

「農協建築研究会」の作品

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 当館の設計者は円建築設計事務所*3 。梓建築事務所(現 梓設計)出身の山田昭氏が創設した建築事務所です*4 。山田氏は農協建築研究会(会長:大高正人氏)のメンバーでもあり、その一環として設計を手掛けています。
 同会の活動内容については、その一端が雑誌『近代建築』の記事に取り上げられていました。副会長を務めた農林中央金庫調査役・山名元氏による「農協建築を考える」と題した寄稿です。細切れのつまみ食いで恐縮ですが、活動の背景と理念に関する記述を引きます。

(前略)
 我々が一般に対象とする綜合農協は日本全国で昭和27年には約1万2千あったが、その後農業の規模拡大の方向に歩調をあわせて合併し、現在では約7200の農協がある。
 この農協は事実上農村の経済、生活、文化の中心であって、地域社会のセンター的役割をもっている。(中略)
 このような地区社会の中心であり、組合員の信頼を支えとする農協事務所建築は…(中略)…その地区社会に及ぼす影響力は非常に大きく深いものがある。(中略)
 変動の激しい農村を背景として、農協事業もこれにあわせるというよりむしろ、未来を想定して、事業方針を確立していかねばならない。
 新しく企画される農協の建物もこの農村の未来像を考えずして計画は不可能である。
 (中略)農協合併に伴い、大部分の老朽化した農協の建物は今、更新期にきている。政府を始め農業系統機関では、長期低利の資金を用意し…(中略)…未来的な投資として利用されることを願って…(中略)…昭和42年11月末現在で総額約630億の資金がでており、内農協事務所73億、有線放送施設に17億 病院に24億貸し出されている。
 しかしこれら新築農協の大部分は全く即席的建築技術設計に終っているものがおおいようである。新らしいキャンバスを、ただ書くことのみに捉われ、創ることを忘れ、その描く対象すら定かではないのではなかろうか。(後略)

※山名元「農協建築を考える」(『近代建築』1968年4月号43~45頁)より。太字は引用者による。

 地域社会の中心的役割をもつ農協が、合併を機に建物の更新期を迎え、各種機関から資金面で支援されている──という当時の状況を踏まえたうえで、次にように問いかけています。新たな農協の建物は農村の未来をも見据えたものとすべきだが、現実に建てられる農協の大半は即席的な設計にとどまっているのではないか?
 農協の建物は、すべての組合員に豊かな未来を約束するもの。それを実現するため、建築家が農協や農村社会とコミュニケーションを取り、自ら与条件を提示して解決を図り、その過程での発見・創造を通じて作り上げていかなければならない──研究会が目指した農協建築とは、このようなものでした。

(前略)
 この農協を支えているものは、とりもなおさず、この地域に居住する組合員で、この組合員の出資で組織ができている。(中略)このように農協といっても千差万別である。しかし農協の役割のバックボーンは“組合員の豊かな未来を創る”ことであり、これ以外の何物でもない。
(中略)
 地域社会に密着した建物を建てる前提は、その社会に居住するあらゆる階層の人々に利用されることである。(中略)地区の居住者1人1人が建築主であり、利用者である。公共の建物は大なり小なりこのような意図で計画されている筈であるが…(中略)…利用するものにとってはむしろ、公共機関の建物であって、地区居住者自身の建物であるという実感は湧いてこないと思われる。農協事務所は…(中略)…これを支えている各階層の組合員のものであることを啓蒙認識させることから始めねばならない
 次にこの建物が、地域のモニュメントとして考えられるだけでなく、農協事業の発展即ち、組合員の豊かな将来を約束する先行投資として、急変する農村社会環境に長く耐え得るものでなければならない
 そこでこのような計画に先立って、農協の役員、事務局、そして各農村社会の個々の集団の中において説得啓蒙し建築物の立地条件、敷地の選定、利用者のアプローチし易い前庭である広場、親しみ易いファサード、同一敷地内における多目的な建築群の配置、それぞれの動線の整理、また建物内部においては、現在と未来の事業量と質的変化…(中略)…これ等の与条件を積極的に建築家の方から提示し、その解決のプロセスにおいて新しいものを発見し創造していかねばならない。またこのプロセスの間に積み上げられた結果が、より大きな建築の効果をあげる前提となり、無機的な建物に永遠の生命を与えることになる。
(後略)

※前掲記事より。太字は引用者による。

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 ちなみに記事の終わりでは、いわば成功事例の一つとして、ここ西都農協に言及しています。新築を通じて農協側の組織体制が強固になるなど、事業に好影響を及ぼしたというのです。
 築後50年以上が過ぎた今なお当初の用途を保っていることも併せ考えると、農協建築研究会の理念が結実した作品であるといっても差し支えないでしょう。

(前略)
 前述のような手順によって出来上がった建物はその地域社会の中心として敷居がすりへる程利用されているのを見て喜びにたえない。事務所の中で事務をとるもの、農協を訪れる組合員、総てが新しい意欲と希望を農協の建物が媒体となってもつようになってきている。たとえば九州の西都市農協の本所事務所新築のときに、私達が相談に預った当時は農協の幹部自身の協力体制さえ不充分で、そのため貯金量も7億と少く、事業一般にも生彩を欠いていた。しかし事務所作りを通して、必然的に協力が強固となり、事務所完成までの1年半の間に貯金は20億円と飛躍的に増加し、その事業体制も一新したのである。このように農協を中心とした農村の建物は建築家自身の姿勢によっては建築家の本来的役割を果たせる処女地である。
(後略)

※前掲記事より。太字は引用者による。

建物の現状(2019&2021)

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 それでは建物の現状を見ていきます。薄曇りの写真は2019年春、晴天のは昨年夏に撮影。正面が北東向きということで、いずれも朝に訪れました。

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 敷地は緩やかな高低差があり、やや高くなっている南側に正面玄関と前庭を配しています。前面道路と同じレベルの北側には駐車場。人と車の動線が明確に分離されています。

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 玄関。左手の区画は後年増築(というか内部化)されたもので、当初はより開放的なピロティだったようです。現在は建築不動産センターが入居。

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 玄関ホール(許可を得て撮影)。敷地の段差を活かしたスキップフロアも魅力ですが、何より素晴らしいのが階段です。骨太なコンクリートと繊細な手すり、言うなれば力強さとしなやかさが同居しています。来館者を2階へと誘うように、緩やかに弧を描いているのも良き哉。

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 笠木のカーブや手摺子のデザインを含め、ただただ素晴らしい階段です。雑誌『近代建築』の写真とほとんど変わらぬ状態だったこともあって「こんなに素敵な建物が残っていたんだ!」と感動を覚えずにはいられませんでした。

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 南側2階(一段高いほう)は当初の大会議室。『近代建築』の記事によれば“組織的情報活動の場”と位置づけられ、組合員向けの多目的ホールとして利用されていたようです。2019年の訪問時は「西都市農民研修施設」という表札が掲げられていたほか、入口に書棚も設けられており、恐らく当初と同じような使われ方なのだと思われます。

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 外部に戻ります。ピロティに表れた柱梁の打放しと、外壁のスタッコ風?ハツリ風?の仕上げもこれまた良い。

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 玄関右手の塔はトイレ。前庭との間には、かつての水盤と思しきスペースがあります。ちなみにこの両側にプレコンの欄干があるのですが、駐車場の拡張に伴って前庭の一部が削られた結果、駐車場側は無用階段ならぬ無用欄干ともいうべきトマソンと化していました。

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 駐車場に面した北側。1階には中央支所が入り、信用・共済(≒金融)業務を担っています。

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 ここまでが1967年完成当初の部分(今更ながら本館と呼ぶ)。これより北側に隣接する棟(同じく別館と呼ぶ)は後年の増築と思われますが、本館と同様の外観で建てられています。

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 別館。築年数が本館より浅いためか、2階の外壁仕上げはほぼ旧状を留めています。1階には経営指導課が入居。

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 北西面は本館と同様に白っぽく塗装。角から見ると違いが一目瞭然です。

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 本館と別館の間。赤く塗られた部分に何やら隙間が空いていますが、この隙間から左は増築ではなく本館の一部で、当初は打放し仕上げでした。

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 赤い隙間をくぐり抜けると鉄骨の外階段。玄関ホールのコンクリートの階段とは異なる趣ですが、これはこれで良いものです。

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 裏まで抜けて振り返ると、別館の背後にこんな鉄骨造の建屋が隠れていました。『近代建築』の記事によればLGS(軽量鉄骨)造の付属棟があったようですが、この建屋のことでしょうか。屋根の断面が両凸レンズのように膨らんでおり、時代的に八女市立花体育館📷(福岡県/1967・S42/菊竹清訓建築設計事務所)を連想します。

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 本館背面。こちら側も小さいながら後庭が設けられており、裏口といえども明るく広々とした印象です。ちなみに水盤の跡らしき造りも見られますが、そこに2本の柱を立てて2階を増築しています。これもこれで凄いですね。

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 当初の設計理念が今なお息づいていることを感じる一方、駐車場を広げたり水盤に増築したりと、建物を使う側の苦心の跡も見て取れました。それでも前庭や水盤をすべて潰すことはせず、原型を保ちながら作り変えているというのは、恐らく「もとの設計をなるべく活かしたい」という思いがあってのことなのでしょう。
 そうして手を加えてきたからこそ半世紀以上にわたって本所機能を維持し、現在も地域の拠点の一つであり続けているのかもしれません。設計者・施工者のみならず建築主や利用者にも恵まれた、何とも幸せな建物ではないかと思います。


【脚注】
*1 1964(昭和39)年7月、妻・上穂北・都於郡・三財・三納・川北・宮ノ下の7農協が合併。本所、5支所、6出張所をもって西都市農協が発足した。
*2 まず1955(昭和30)年、妻町・上穂北村が合併して西都町となる。次に58(同33)年、西都町と三納・都於郡の2村が合併して新たに西都町となり、同年11月に市制施行。そして62(同37)年、西都市と三財・東米良の2村が新設合併し、現在の西都市が誕生した。
*3 『近代建築』1968年4月号55頁より。事務所名の円(まどか)は正式には“圓”。
*4 山田昭(やまだ あきら)氏は1927年、神奈川県鎌倉市の出身。55年に早稲田大学を卒業して梓建築事務所に入る。59年に伊藤基二・稲葉典雄の両氏とともに独立し、円建築設計事務所を創設した。なお農協建築研究会で協働した大高正人氏については「師」と「尊敬する建築家」に挙げている。(『設計事務所便覧』1970年版、『新建築』1981年12月臨時増刊号より。)

【撮影年月】
 2019年3月、21年9月

【参考文献・リンク】
  • 山名元「農協建築を考える」 ※『近代建築』1968年4月号(近代建築社)43~45頁
  • 「西都市農協会館」 ※同上55頁
  • 『設計事務所便覧』1970・全国版 江川常次郎/日刊建設工業新聞社事業部/1970年
  • 『西都の歴史』西都市史編纂委員会/西都市/1976年
  • 『新建築』1981年12月臨時増刊号・日本の建築家(新建築社)90~91頁
  • JA概要🔗(JA西都ホームページ)


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